刺激が大きい時イコール無知であると言えるかもしれません
順応や理解に精一杯で
善悪だとか常識だとか恥じらいだとか
すべて飛び越えて取り組み学んでいきます
こんな状態に近いときに人と出会う
それはきっと人としての喜びであり幸せの原点に触れる機会で
たとえば恋愛していて
本当に大好きな相手といるとき
場所や時間目的など関係なく幸せを感じられたり
そんなところに幸せの原点はある
(気がする)
人との繋がりを歓ぶ過程においては
相互理解が必要なため
自らの経験を介して
相手が喜んでいるか嫌悪を抱いているか可能性を探っていく
その時点で卑しくもなっているのと
可能性は無限に広がっていくので
出会いや繋がりを歓ぶ機会を逃してしまう
方法として信頼関係を築いていくこと以外
記憶を失わせるほどの刺激を得て契機としていることもあり
そういった共通認識の出来る出来そうな物象を介して到達しようとするものと考察する
過程にある自らの経験が何のためにあるか
目的を明確化するならば幸せの原点にあるとおもう
だが条件を介さず直接的な出会い繋がりを歓ぶ機会を得るのは非常に困難なのだと
そのようにしてパラドックスへと突入していく
(ではなかろうか)
立場を越えて歓び称え合える場所に幸福の原点はある
薄々ながらでも多くの人が機会を得た経験はあると思う
そこには到達できない認識を強化することは
それほどに望ましいのだろうか
陰と陽
分断と統合
現象化が分断であり陰であるなら
非現象化が統合であり陽になる
現象化された中での陰と陽ばかりに
気を取られてはいられない
分断は統合のようであり統合は分断のようでもある
分断しているようでありながら統合に近づいたり
統合しているようでありながら分断化していたりと
そういうことにあって
パラドックスは成立する
結果的に分断が統合を統合が分断を齎すことではなくて
生命は陰陽法則上に存在していて
その立場から陰陽を越えて見解を示すのは困難なためである
(と)
陰と陽続
分断と統合
現象化が統合となり陽となる場所あるならば
非現象化が分断であり陰になる場所もあるわけで
宇宙は広大
可能性は無限大
かしこみかしこみ申します
善悪の有無について
三次元では必ず善悪の概念がある
なのに善悪はないと主張する人がいる
これは何か
その人は善悪に縛られて生きていないのだろうか
状況かわれば法も犯すのか
そうではないようで
環境により右往左往する
罪を憎み人を憎まずみたいな認識だろうかと第一に思う
しかし罪というからには悪であるだろう
であれば悪により善が生じて善により悪が生じる
そういうことを言っているのか
それとも人により異なる価値を語るのか
それとも地球を乖離した見地から中庸として申しているのか
果たして善悪ない完全な中庸など成立しうるのか
正しい目的つまり真実あるならば目的を目指すこと
それは善といって良いではないかと思うわけです
真実を目指すことは善悪ではないのか
だとすれば善悪とは一体何か
どんな概念で用いているものか
【善は道義的に正しい事または倫理に沿った行いや理想的目標】
とある
道義的に正しい事または倫理に沿った行いや理想的目標
あまりにも知らなすぎるようになったのかもしれません
それも奇妙な話である
人に歓ばれ称えられる人になりたいと
でも人が歓び称える人とは
人に歓ばれ称えられる人になりたかったとは限らない
そして本当に幸せなのかの疑問は残る
その疑問は少数だからなのか