一般的に我と欲は同一視されていて合わせて我欲とされる印象がある
欲を捨てるのは能動的に希望を失うこと
だからといって能動的に絶望するわけでもなく
ならば受動的希望絶望とは我のことといえましょうか?
諦めの境地といいますか?
欲捨てても我はあり
我ある限り
もともと欲とは能動的な希望であり
絶望は後発で希望が発せられない限り生じない
そういう特性だから
でしょう
地球にも宿命や運命があるでしょう
宇宙秩序の統制下にあるといっていいのかな
地球の宿命的限界
そういうものを検討してみたい気もする
諦めの境地か
地球は苦界
人は欲界
地球が苦界であり
人が欲界に生きるも
宿命や運命づいた理由があるだろうから
高次の介入もなく
成立しているものだろうと思いますね
人として最高の生き方はあっても
それは厳しく至福であるということではなくて
そこに至福があるとするなら
最高の生き方ではないのだと思えます
そんなこといいたいわけありません
その件
これ以上は閉ざさねばならないとおもいます
なにも意味も見出さず
果てていくなら
壁にぶつかるまで
繰り返すだけだろう
清らかなるもの
心で修められ揺るぎなく
肝に銘ずることさえできるものなら
言語化なんて意味のない
煩わしい作業はしなくなれるだろうけども
この過程このプロセスでは必須だ
と思うのです
肯定できるなら人間界で留まるだろうから
人間界は否定していきたい
そこにあるのが礼拝です
誤魔化して逃れようとせず納得して落とし込む目的で
わざわざ言語化の煩わしい作業をしているのであります
成長の星と考える私見によりましては
過程を終えては意義を失う道理的理由から
苦境の発症時期は後発であると考えられ
人体学的な規則性からも恐らく間違いはないのではありませんか
大難を小難にするというのは
いつどの早い段階で気づくことだと言われてるでしょうか
気付かなければ振れ幅が大きくなっていくということも道理的に正しい見方ではないのでしょうか
自説的には気付くまで続行される成長の星ということで見ています
苦境が後発というと嫌な印象です
先発だと仰る方もおられるでしょう
最初に努めて苦と対峙するから
後に楽を得られるのであると主張されると話は食い違ってきます
これは地球が成長の星であること前提にしています
ねんのため
三次元で苦しみの後に条件が重なると楽がくるように
地球で苦しんだ後も条件が重なると楽がくる
立場上推察しかできませんが宇宙も多層構造であり
構造自体は永遠のように引き継がれている
なんとなくわかってることかもです
整理して言語化してみるとモヤモヤが晴れてきます