生命の成り立ちについてAIに質問してみたんですがビックバンとか量子とか化学反応だとか別の意見を示します
生命活動の元になった物質は無から創造される以外ありえない説なんですが
無の定義云々は抜きにして無から創造されるのであれば、今度は無以前の状態があることになるわけであり無以前の状態は考えが及びません
無つまり0でマイナスになるのかな?
マイナスとプラスの物質が、無以前にそもそもある
どこにあるのかというと
やはり無の中だと思うんですよね
無の中で活動している説が個人的な支持

ここは間違いないはず
俗説では行動が先となっているが本当にそうなのかと
筋トレや散歩日光浴は確かに間違いなく病んだ精神に有効でしょう
そうではない行動となると人為的な行動には問題の種があったりするもので
筋トレや散歩のような有効性は望めなくなるのでしょう
筋トレや散歩だって頭空の状態に近づかなければ意味がない
頭からっぽ散歩で回復しても現実の悩みと向き合う問題となれば効果も殆どは暫定的なはず
なので効率的なのは抜け出すために必要な情報をとること
そう考える
精神でも身体でも病んでしまうと思うような行動をとることもできなくなる
こんな時に頭を軽くする手順も踏まず無理して思うような行動に動くと色々問題が生じるのだ
頭を軽くできず体も動かないなら耳から必要な情報を拾っていく
いっぺんには取り込めないから
徐々に



気狂いしてしまう
壊れてしまう
そういうリスクがある
一般的にそうなると思うね
そういうことを体験を積んでなく知らない人は多いと思う



そういうもので溢れる世界が理想だと思う
デメがあるってなんなのかわからない
成長しないというのも
幸せなら成長なんかいらなくないですか
不幸だから成長を求めるのだから
信じられないですね



そういう成長ってなんなのか
世界で求めきれないから成長するしかないというのであり
宇宙的な仕組み
高次としかいえなそう



言葉にすると主観が入るので俯瞰性が抜けてしまうからか
いかなる現状にも満足するためには
次元を越えた因果の信心
因果律の理解を強化しなければとおもう
三次元だけで因果を捉えるから不幸なのは今生の自業自得だと勘違いしてしまう
因果法則を今生の問題だけで処理しようとすると
どうしたって無理があるんだ(思う)
今生では愛に溢れた人なのに辛いを想いをしていることもあったり
逆もあり
だから因果律へ疑念を抱く面も生じてくる(思う)
結局生命は環境や経過により決定づくだけで皆元は同じワンネスということでしょう
(なんか言葉遣いが、、読まれること考慮してギクシャク)
愛や優しさのない世界があれば愛や優しさのある世界がある
幸せだと思う人は気を悪くするかもしれない
それは幸せではないからだ
幸せなら気を悪くするはずがない
幸せとはそういうもの






これですよね
要は



言いたいこと言えば上手くいくなんてこともない
言いたいこと言えるようになっていけるのが理想ではないですか
本当なら
何も言わないほうがいいのは破綻しているんですよ
現実そうだと思います
何も言わないほうがメリットあってリスクも少ない
それを選択するのが賢く好ましいとされるわけです
嬉しいことですか
残念なことか
別に決して好ましい状態ではないです
と思うのです



それに近づく努力なんかあるんでしょうか
疑問です



申し訳ありませんでした
何も言わないこと目指す立場にあると承知しました
大変申し訳ありませんでした
考え改めます


触れると壊れてしまいそうな幻日的なこと
預言など公言すると実現しなくなったりするときく
それで回避目的ということもあるらしくて
全体的なものだと受け止めているけど
個人的なものかも
気分いい波動を感じる
このくらいまでなら壊れないでしょう
具体化すると壊れそう

科学では解明できないとされるけど
完全否定して現象解明できる理由がないのであって
基本説明できない土台に立つ科学だから
そういうものといえばそういうものだけど



それで有利不利のない話かもしれないかな
信じられる信じられないのステージは誤魔化したつもりになっても誤魔化せないし誤魔化すのだけは損だと言えそう



そんなにそもそもスポットが当たらなかった
やっと大分信じられるようになってきた感じだけど
まだまだ



そこに真実がある限り早く知るほど有利ということでしょう
なんとなく割愛
ここではこのへんにしておきます



考えてみれば’あたりまえだろ’と言われそうな
ちょっといってみただけですが
これも
プロセス
孤立ってキツイ
孤独ではないから孤独よりキツイんです
これも考えてみれば’あたりまえだろ’と言われそ



無駄口は要らなくなる
それは知ってます
割愛



今日は別の場所で一人ずつ計二人から話しかけられて
ちょっとだけ話ができた
二人とも気が合いそうだったから
嬉しかったけど少し落ち込んだんだよ
風が心地よかった
なんかな
寂しいと思うわりに
一人になりたい気持ちがいつもある
たぶん孤独は嫌いではないけど
孤立が嫌だな
孤立するなら孤独になりたい
そんな感じなんだよ
知られてるのかな
そういうの



「なぜ生きるのか。そこに真実があるからだ。」
置き換えられるね



存在自体が幻想的で
だって
もとは無から創造されているんだから
幻想の中の真実みたいな感じじゃないのかね


受動的メンタル強度?については偏に忍耐だと言い表せる気がします
能動的メンタルも一般的に同一視されてはいるようですが検索してみますとヒットしました
ザっとスクロールしたところ適切に区分された言語はない様子です
あるかもしれませんが
単純には能動的メンタルは目標設定があり受動的メンタルにはない
そんなところではありませんかね

厳格の対義は寛容らしいと記します



でも現実は受け入れるほかなくて
じゃあ受け入れるって何なのかってなりますが
理解できる思い込みで現実はつくられているという矛盾がある
全体で理解できないことを理解するべきだとも
もし全体が理解できているなら現実を受け入れるのは容易なはずで
現実を受け入れるって厳しいなとつくづく感じることはない
現実を受け入れるって厳しい



間違いないのに分かってくれない
つらい
お彼岸だけど
つらい
どうなってるのか
落ち着こう



人生は
もっと優しい世界であってほしいよ
ほんと
殆どの人は上へ上がれないというじゃないですか
それほど厳しいわけです
悲しいじゃないですか
ねぇ
そんなの
なんでか



この言葉にさえ問題があると言われそうな気がするんだ
つらい



そこに介入あれば当然人は排除へ働く
排除が上手くいって再び幸せを感じる瞬間が得られるか
排除される立場はどうしろというのか
などと介入すると排除されていく気がするのです



ならば逆を行こうということになるのかな?
不幸な人より幸福な人の意見が参考になることについて
・・個人的には興味ないかな
多分不幸を克服した人の意見が最も参考になるというのでしょう
でもさ
個人的には回答が見つからない
なんでかな
と思って



不幸な人の自覚と幸福な人の自覚って
幸福な人って誰なのか
人は皆幸福を求めていくけど幸福な人って誰なのかな



いい日だって聞いてたので
余計に体調やメンタルが
思うようには動かしてもらえない
そんな時無理して出かけた経験もあるけど
たいして収穫を感じられていないわけで
寧ろ失敗体験が際立つから
そうやって現実に動いている
で
どうするか考えると



幼いころ泣きながら歩く経験したけど
大人になってからも類似体験するとは思っていなかった
何年か前になるけど少し懐かしい感じがして
幼き頃思い出すようにしながら歩いてみたんだ
辛いけど
その時の収穫は忘れている



少し良くなってきたとおもったら
またダメになって
行動した何かが違うとか
特になくてね
理由のつかめない状況が多々ある
宇宙的な運命的な生命的な
なにかだろうけど
科学的な理由ではなさそう



世の中は狭いのか広いのか
広いようで狭かったり
狭いようで広かったり
それも不可解



どうして時間差を生じるようになっているのかな
徐々になっていったのかな
誰か解明済みなのかな



良くなるに決まってる
ないものねだりに違いないけど
なんでかと思った


相対的貧困は孤立感増幅されて心の病気になる
心の病気になれば生活も自律神経も乱れ身体も病んでいく
そして相対的貧困は常に一定数存在する
精神的に強くなる手段が残されるけど克服は容易ではない
なので
別の手段
相対的貧困がなくなることまでは期待できないけど
せめて理解ある人たち
マイノリティ−な仲間が手を繋ぎ支え合うこと
それを希望としたいし希望としているはずなのだ
理解ある人たちのコミュニティ
仏教の教えで仏法僧の僧にあたりますが・・
僧の戒律は厳格すぎて
また
でなければ
理解ある人たちのコミュニティは維持できないことから
きっと
なのでしょうけども
心で繋がれる理解ある人たちのコミュニティ
瞬間的にも成立可能である限りは
いかがなものなのだろか
ひがん 春

欲を捨て孤高を目指す
そこへ目的があるならば
コミュニティは成立するのかと
自分軸・・
かえて
例えば頭を丸めるとかしなくていいコミュニティ
題は相対的貧困なのだから
絶対的貧困より恵まれている因からなるわけであり
もはや絶対的貧困も皆無とはいえないけども
因は解明されているのか
ともかく
はぁ



経験を負わされてきました
縁といえば縁
運命といえば運命
到底目指せると思えないほどの理解理想はあり
それも縁といえば縁
運命といえば運命
有無言わせず歩まされる
生命で
それさえも
それこそ
歩まされる道なのかと
どんな
ご苦労なことか
人生と
想うこと
すべて語ることはできない
理解されるわけないから
語れないなら共に目指せないことになる



これはジレンマの一種だ



受け止めるほかない
どっちなの
どう違うのか
人との関係上にある溝
埋めようとして埋まるものでもないのに
受け止められない自分がいる
悲しすぎるから
寂しすぎるから
理由はこの二つしか思い浮かばない
他に何かあるのかも
あったとしても
このアプローチからは発見できない



想いを書けること感謝します
生きている
実感が沸き上がってきます
生きている
ただそれだけであれば
どうってことはないのです
ただそれだけであっては
嬉しくも悲しくもないでしょう
とりあえず今ここに
想いを書けることに感謝できるということ
自己表現できる自己本位贅沢性をも感じられるからなのか
それをもって他を傷つけるならば
なんとも残念なはずだ
だから気をつけたい
どんな表現をすれば歓び称えてもらえるか
わからない自分がいる
どんな表現をすれば自身も納得でき
そして歓び称えてもらえるのだろう
わからないのである



ではなく
歓び称え合いたいのです
理解し合うということ
それは
こんなにも難しい
それが
わからない
そこには煩悩が多い
ということはよくわかる
どうしたらよいのか
まったくわからない
※既にかもしれません、これ以上書くと迷惑でしょうかと
(この答えだって色々あるでしょう)



類似経験も含めて記憶にないのでわからないけれど
たぶん喜びと満足にとどまれない気がするんだよね
憶測では誰かの力になり寄り添える環境に満足できなくなるのでしょうか
そうではないというなら聞いてみたい
誰かの力になれて寄り添える立場にあれたとする
それとも現実を受け入れて十分な喜びや満足にとどまれるのかな
自画自賛できるほど
人生に満足できるのだろうか
聞いたことはなく疑問でしかない
満足できないのが人生なのか
どうすればいいのか
もっともっと考えさせられる
なんで答えがわからないんだろうかな
この世界で



それも色んな状況にあるから不平不満が立ってしまう
ダメな自分を生かせてもらえることに感謝だろうか
ダメではない自分を目指せばいいが
ためにはダメではない理想像を先ず描けなければならない
理想像は非現実的であってもいいのか
小学校で将来の夢とか何になりたいとか書かされたけど
その時点で本当はどうでもよかった
正直に、どうでもいいなんて言えませんよ
当時はね
今時は違うかな?



子どもだけではなく非常に重要なんですよね
なので自論は避けます
はぁ−−−−



なんとかしようなんとかしたいとなるほど不平不満は漏洩する
ここなんだよね
なるようになれでは耐えられなくなるから
なるようになれには身勝手もある
それでいい理由を探り考察すればいいのか
なるようになれで本当に上手くいくのか
なにかが足りない



僧の戒律が厳格な理由も理解できる
如何なる状況にも耐えうる覚悟
そんなものがあれば
相対的価値にある不平不満を抱いたり
ここへ書いたりもしない
この気持ちは
独りだけのものでもないとおもうのであり
余計におもうのであります



このへんにしておきます
心が不安定

